運動の中心には埼玉総合法律事務所が(弁護士 伊藤 明生)

弁護士 伊藤 明生

私が,当事務所に入所したのが1987年4月でした。事務所は,青年法律家協会及び自由法曹団の埼玉における活動の中心的存在であるとともに,弁護士会でも中心的な存在でした。その為,それらの活動に積極的に参加しました。そのことが当然と思い込ませられていたのですね。当時,埼玉弁護士会では,国家秘密法反対,拘禁2法反対などの集会が行われ,その準備を手伝った記憶があります。弁護士会は,今でもそうですが,その集会には,若手弁護士が駆り出されるのです。あのころは,言われたら何でも引き受けていた記憶があります。当事務所の私のちょっと上の弁護士達がそれらの活動の中心であったため,断れる雰囲気になかったのです。青法協の陪審法制定の運動にも参加し,その際,陪審模擬裁判が大阪で行われたのですが,私がその裁判劇の被告人役に抜擢されました。それが「国対伊藤」という本になったわけです。

1988年6月に全国で「過労死110番」が行われ,埼玉でもということで,これも事務所が引き受けることになりました。そこで,埼玉でも翌年6月から「過労死110番」に参加し,埼玉過労死問題弁護団も設立されました。団長は,吉田中山法律事務所(当時)の吉田聰弁護士が就任し,私は事務局として頑張りました。また,秩父じん肺,過労死事件などの労災事件に取り組み,私も,その下働きをしました。これらのことは,事務所の弁護士としては当然なのです。今後もこの事務所の伝統は変わることはないでしょう。

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