弁護士として、やりたいと思う仕事をしている今の自分は、中山先生のもとでの司法修習から始まった。当時、中山先生は40代半ばで、弱った人、力を失いかけた人、味方のいない人たちの権利を守り、大きい者、強い力を持つ者や社会の理不尽と闘っていた。HIV訴訟、高野国賠訴訟など、多くの弁護士や当事者の人とつながり慕われていた。
「俺は反面教師だからさ」と言いながら、はみ出し者のような私を認め、どこかへ迷い込みそうな道を照らしてくれた。仕事が早く、几帳面で緻密で、本田勝一の「日本語の作文技術」をくれて言葉に繊細になるよう指導してくれた。埼玉総合への入所の道を開いてくれたのも中山先生だ。
弁護士になってからも体を張って一緒に現場に立ってくれた。まだヤミ金の実態が見えにくく弁護士による対応が不十分で、心中事件など被害が深刻化していた2002年、「ヤミ金融被害対策弁護団を立ち上げたいので、先生、団長になってもらえませんか」とお願いすると、「俺が殺されてもいいのか」と笑いながら引き受けてくれた。その後も、生活保護引下げ撤回訴訟や原発訴訟などでも「しょうがねえな」と言って団長になってくれ、私たちが自由に伸び伸びと取り組める場を作ってくれた。
中山先生のおかげで今がある。事務局の橘さんと3人で中山事務所の陽の当たる机で昼の弁当を食べた日々。先生がハスキーな声でダンシングオールナイトやチャコの海岸物語を踊りながら歌っていた姿。楽しくかけがえのない時間や大切なものを渡していただき心から感謝しています。
(2024年11月5日に亡くなられた中山福二先生を偲んで)
弁護士 猪股 正