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コラム-宮澤洋夫弁護士

50年前、さいたま市に原子炉があった~三菱大宮原子炉訴訟~

 宮澤洋夫弁護士は、大正15年生まれ。陸軍航空士官学校を経て終戦を迎え、民主主義や平和の大切さを痛感し、最高裁判所勤務を経て、昭和41年弁護士になります。

 そんな宮澤のところに、大宮市北袋町(現在のさいたま市大宮区。JRさいたま新都心駅東側)の住民の皆さんが、「三菱大宮研究所の原子炉設置をやめさせたい。」とやってきました。

 三菱原子力工業は、昭和41年9月、日本最初の原子力船「むつ」動力用原子炉の研究開発目的で、大宮研究所に原子炉を設置する計画を発表しました。そもそも三菱は、昭和34年11月14日、大宮研究所には「原子炉の設置はしない」と約束していたのですが、これを覆して、国や県の許可をとり、原子炉建設に乗り出してきたのです。

 宮澤は、地元住民2000人からの依頼を受けて、県の許可を争い、昭和47年9月、東京高裁で勝訴しました。また、三菱に対しては、原子炉の撤去訴訟を昭和44年7月7日に提訴し(この日は原子炉の落成式の日でもありました)、昭和49年7月まで戦い抜きました。最後は、三菱が「原子炉撤去」を表明し、地元住民の勝利和解で終了しました。

 平成29年9月7日、90歳の宮澤は埼玉弁護士会で、三菱原子炉訴訟、これに続く「福島・東海原発訴訟」の経験を語り、埼玉弁護士会の多くの弁護士が宮澤の話に聞き入りました。宮澤の戦いは、今、3.11福島原発事故訴訟の弁護士らに引き継がれています。

戦後雑感(弁護士 宮澤 洋夫)

宮澤弁護士が事務所ニュース第57号(2005年8月発刊)より、戦後憲法について語っているものを抜粋しました。
宮澤弁護士の戦中戦後の話は、私たち若者に平和とは何かを考える機会を与えてくれます。最近は毎日ではありませんが事務所に来て、元気な姿を見せてくれています。

戦後雑感

弁護士 宮澤 洋夫

大東亜戦争末期、日本軍の沖縄戦玉砕後米軍航空機による本土攻撃は激しくなり、共に航空訓練中、米艦載機の来襲を受けて戦傷死を遂げた同期生も含まれていた。

戦後、同期生は転進し、各界において復興と繁栄に少なからず寄与し、自衛隊の構築に指導的役割を果たしている。
その締め括りと戦後の終焉を共感した。

戦後の憲法の制定により、主権在民、国際協調、戦争放棄、人権尊重を国是として、国民の努力により戦後復興と驚異的発展が遂げられたが、国際環境の変化とりわけアジア地域の激変に対応し、「国の在り方」「防衛の在り方」が問われている。

戦後憲法の選択が誤っていたとは思えない。
自衛隊の専守防衛の理念もその反映である。
しかし乍ら、国際貢献についての対応は単絡拙劣とも評価すべき状態にあり、国民には殆ど知らされていない。
憲法論議の前に叡知を盡した検討と対応が望まれる。

雑感 ”世界文化遺産”(弁護士 宮澤 洋夫)

弁護士 宮澤 洋夫

2014年6月21日、操業停止後18年に亘り片倉工業に管理された「富岡製糸場と絹産業遺産群」がユネスコの世界文化遺産に登録され、これに続いて11月27日小川町・東秩父村に伝承されてきた細川紙を含む「和紙 日本の手漉和紙技術」のユネスコ無形文化遺産登録がなされた。

戦後数年間まで郷里長野県筑北地域の農家は養蚕業を営み、〃繭〃は主として片倉工業に売却され、冬の農閑期には副業として一部の農家は信濃川上支流に簇生する楮を原料として手漉和紙を製造し松本市の業者に売却されていた。
現在は何れも見ることはない。

明治政府の近代化政策はフランス技術を導入した官製富岡工場を設立し生糸産業を軸に進められた。
岡谷市周辺の片倉工業等は改良した諏訪式工法により飛躍的増産を遂げ、輸出総額の60%占有に寄与し「女工哀史」を残しつつも〃絹文化〃の造り上げ・強大な軍備の原資提供の役割を果たして日清・日露戦争の勝利に寄与した。

重化学工業への転換の遅れが〃太平洋戦争〃敗北の重要な一因となっているとの認識の下に戦後復興が推進され、最近まで世界第2位の経済国にまでの繁栄をもたらした。
文化遺産登録の期に国の在り方を再考したいと思う。

原子力の危険性(弁護士 宮澤 洋夫)

弁護士 宮澤 洋夫

1945年広島・長崎への原爆投下により戦争は終結したが、広島・長崎は廃嘘と化し数10万人を死亡させ、30数万人を被爆させた。

1978年核兵器廃絶を目的とするNGO国際軍縮会議に出席した際被爆者谷口稜輝氏が乞われた背中一面のケロイド傷痕の公開に失神者が出たことを記憶している。

1954年ビキニ環礁の米国水爆実験による第5福竜丸の被曝汚染により核兵器反対の運動は高まった。

これに対応して翌1955年米国は原子力平和利用の協定の申し入れと共に軽水炉の輸出を提案してきた。
これを受けて日本政府は原子力の平和利用に踏み切り、石炭石油に代わるクリーン・エネルギー源として原子力発電に着手した。

軽水炉は未完成技術であるにも拘わらず多重防護により安全であるとし、さらに核燃料サイクルは廃棄物の処理処分技術が未確立で安全性・経済性に欠陥があるにも拘わらず、産官協力により安全であるとして全国の発電所に100万トン級の大型原子炉を設置した。

地元住民はこれを危惧して反対し、訴訟を提起したが産官一体の推進体制の下敗訴となっているが、福島原発は地震を契機に大事故となり、2万人に及ぶ死者行方不明者を出し、周辺住民は長期に亘り避難生活を余儀なくされている。

原発の事故は続いており危険性は除去されていない。
廃炉は時期の問題である。

福島原発訴訟に参加し、産官共同体制を打破して勝訴できなかった悔を残しているが、改めて原子力の危険性を認識した。

“憲法”雑記(弁護士 宮澤 洋夫)

弁護士 宮澤 洋夫

1945年、私は陸軍航空士官学校で士官候補生として“特攻隊”の訓練を受け、飛行場を来襲する米軍機を送撃していた。沖縄決選の状況、広島・長崎への原子爆弾投下の状況も伝えられ、8月15日には昭和天皇の“玉音放送”を聞いた。
米・英・中・ソが提示したポツダム宣言の受諾により戦争は終結した。9月2日降伏文書の調印により、天皇を元首とする明治憲法は失効し、米軍管理に移り施政権は連合軍司令官マッカーサーに委ねられた。

日本政府は憲法草案を作成したが、マッカーサーが作成した戦争放棄、象徴天皇等を定めた草案を日本訳した「日本国憲法」が帝国議会に於て制定され、1946年11月3日に公布された。

1948年冷戦が始まるとアメリカの世界戦略は変化し、日本を“反共の防波堤”と位置づけ、朝鮮戦争が起こり、その“特需”により日本経済が立ち直りを見せると、更に経済力を増強し、軍事力を利用しようと企図し、1950年警察予備隊(自衛隊の前身)が設置された。私の陸軍士官学校時代の先輩・同僚多数が参加し要職を担当した。

翌1951年講和条約・日米安保条約が調印されて占領は終結した。

社会主義国の崩壊により自由市場が拡大し、1990年代には米国はその主導権を握り、「警察官」的役割を狙い、高度成長を果たした日本が、米国に次ぐ世界第二位の経済国となった。
91年9・11同時テロを契機に米国はアフガニスタン・イラク戦争を開始し、日本に対し資金提供と「自衛隊の海外派兵」「日米共同作戦」が要請され、新たな市場を求める財界の同意を得てこれに応じた。

自衛隊の海外派兵と活動について、政府は「周辺事態法」「テロ対策特措法」「イラク特措法」等を制定して対処したが、憲法解釈上「海外派兵(・・)」は許されず、「集団的自衛権の行使」は最小必要限度を超えており、「多国籍軍等への参加」は武力行使を伴うもので許されない等とされている(参考・名古屋高裁判決)。
この戦争はアメリカの撤退により終結された。

中国は急速な経済発展に伴い、アメリカの最大貿易国、国債の引受国となって、アジア地域の覇権確立を目指し、尖閣海域の開発も進行している。
我が国は日米安保条約に基づく防衛大綱を改定して海兵隊機能の増強を企図している。

参議院選挙は戦争放棄か憲法改正か、その手続が争点の一つとなり、与党の勝利となった。国のかたちを変えるのか、どう変えるのかが今後の最重要な政治課題となった。

団藤重光先生を偲ぶ(弁護士 宮澤 洋夫)

弁護士 宮澤 洋夫

団藤先生は去る6月25日、逝去された。私共が司法試験に挑戦していた頃、刑法学会を二分していた小野清一郎先生の「応報刑」論、木村亀二先生の「教育刑」論に対して、人格形成責任を問う「人格刑」論を展開され、平野龍一先生の刑事訴訟の「弾劾的捜査」論と相俟って刑事法学界に画期的変化をもたらされた。

団藤先生は「最高裁判事」(74~83年)に就任されて、衆参両院の議員定数訴訟では「一票の格差」が拡大することに警鐘を鳴らす意見を表明し、大阪空港騒音訴訟では飛行差止を却下した多数意見に対し「住民の健康と生活環境を侵害している」と反対意見を表明する等リベラルな対処をされていた。
他方、「疑わしきは被告人の利益」の鉄則を再審に適用して再審の門戸を広げた「白鳥決定」に関与し、「名張」毒殺事件にも関与されたが、それを契機に「死刑廃止論」に転じられた。

退官後は死刑廃止運動に参加され、「死刑廃止論」(91年)を出版され「刑罰なき社会」を問うたが、1995年、多事に亘る刑事法学への貢献により「文化勲章」を授与された。

関東弁護士会連合会は平成7(96)年度司法シンポジウムを「死刑廃止」をテーマに開催した。
団藤先生の「死刑廃止論」はもとより、「欧米諸国の資料・文献」等内外の資料・現地視察の結果も反映された。
翌平成8年の“園遊会”で東宮参与に就任されていた団藤先生にお会いした際、「この20年間で死刑廃止国と存置国は逆転したが、“関弁連”始め法律家の皆様の活動に勇気づけられている」と述べられたことが甦る。

福島原発事故について(弁護士 宮澤 洋夫)

弁護士 宮澤 洋夫

 東日本震災取り分け福島第一原発事故は本年最大の出来事であった。M9の地震と津波によるもので福島第一原発の事故を引起した。死亡者15840名、行方不明者3546名(警察庁12月13日調査)に上っており、地域に住宅・施設その他多大な損害を与えている。被害は地域、住民により、自衛隊その他の国民的支援を受けて対処されてきた。

 福島原発設置に反対する住民訴訟は昭和39年11月に福島地裁に提訴したが、裁判所はその安全性については審理することなく、行政庁の監理に委ねられその責任とし、住民の訴えを斥け、上級審も同様であった。

 我が国は広島、長崎の原爆投下により住民等多大の被害を受けたが、平和利用の名の下に安全性の審査を受けて商業発電を許可され、産業のエネルギー源として全国的に原子力発電所が建設・運転されてきた。然し乍ら、原子力の安全性について研究開発を怠った無責任の付を施設周辺の住民が負担される結果となったものである。

 福島県が要求している被害原発等すべての解体撤去には半世紀を要し、原発関連の核燃料再処理施設の廃止、再処理による生成された使用済燃料のプルトニューム使用による高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉等関連施設の廃止、さらには核廃棄物の地中保管、投棄等の処理処分を始め、福島原発事故後提起されている浜岡原発等の廃炉解体処分等引続き対処することが緊急課題となっている。

 当然のこと乍ら今般の原発事故に基づく住民の受けた全損害は速やかに賠償されるべきものである。今年の課題は山積している。

以上

原子力訴訟を担当して(弁護士 宮澤 洋夫)

弁護士 宮澤 洋夫

* 戦後復興の流れ

 広島・長崎に原爆が投下され、それを契機に太平洋戦争は終結された。3月11日、東日本大震災に伴う被害者の規模は、昭和20年8月9日長崎に投下された原子爆弾による被害者数と略々匹敵する規模のものであった。

 米軍占領下の復興は被害の甚大、深刻さから遅々として進まなかったが、財閥解体、税財政改革、農地改革等がなされ、憲法改正により我が国は民主国家に改変された。戦争による深刻な被害の回復・経済復興は、昭和25年に勃発した朝鮮戦争の特需が切っ掛けとなった。情勢は警察予備隊の創設に連なり、日米平和条約、安全保障条約締結とで、昭和28年には朝鮮戦争休戦協定が調印された。

 昭和29年に入り、第五福竜丸被災事件が発生し、原水爆禁止運動は全国的に盛り上がり、学術会議は原子力研究三原則を声明した。他方、日米艦艇貸与協定が締結され、防衛庁設置法、自衛隊法が公布された。

 昭和30年には防衛六ヶ年計画が決定され、その頃から神武景気に入った。第1回原水爆世界大会が開催され(昭和35年8月6日)、日米原子力協定(昭30年2月15日)が成立し、原子力基本法、原子力委員会法(昭和30年12月19日)が公布され、産業政策として原子力開発 開始された。経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言している。

*原子力開発の進行

 我が国が原子力開発に着手した昭和30年代初期に日本原子力研究所が設置(昭31年6月15日)されて立地決定の翌月には現地事務所を開設し、その3ヶ月後には早くも第1号実験原子炉(JRR-1)の建 設がスタートし、昭和32年8月27日臨界に成功し、日本初の「原子の火」をともした。

 昭和20年代後半から昭和30年代にかけて、わが国に産 業界を襲ったエネルギー革命の波は、産業構造を石炭中心から石油中心へと質的転換を遂げさせ、多くの重化学コンビナートを建設してきた。それに伴ない、公害は日本列島にばらまかれて、現在の深刻な様相をもたらした。昭和40年代に至って、政府の産業政策優先と企業の利益優先の姿勢とは相俟ってエネルギー源として新たに原子力利用を実用化し、原子力発電・原子力船建造・放射線利用等産業として急速に確立し、「原子力は将来のエネルギーの有力な担い手として着実にその地歩を進め」てきた。この原子力の実用化・産業化への動向は、企業の経済性の要求により、必然的に安全性の配慮を欠如し、原子力にはつきものの放 射能による産業公害を地域住民にもたらすことが予想される。しかも、巷間に噂される原子力の軍事利用に至るときは、かつての広島・長崎の再現は必至である。原子力公害は1970年代にに新たな問題を提起している。

*最初の原子炉訴訟の勝利

(1)三菱大宮原子炉

 日本最初の原子力船「むつ」(8354総トン)は、昭和47年6月の完成を目標に、船体部は石川島播磨重工業が28億9700万円、原子炉は三菱原子力工業が26億7000万円で建造契約が締結された。

 「むつ」に使用する原子炉は、途中でアメリカの原子力潜水艦用原子炉メーカーであるウェスチングハウス(W・H)社からの輸入原子炉に変更された。三菱は 「むつ」の動力用原子炉作成の基礎資料を得る目的をもって、昭和41年9月大宮研究所に原子炉(臨界実験装置)を設置する計画を発表した。

 さらに、三菱は原子力船開発のための原子炉であって、原子力の平和利用のためであると言明しているが、世界にある100隻以上の原子力船のうち軍艦でないものはサバンナ号(アメリカ)とレーニン号(ソ連)の2隻だけであり、原子力船の特性から合理的利用は潜水艦をおいてなく、かつ三菱はわが国の兵器産業の雄で あって、原子炉の設置は「むつ」をもとに原子力潜水艦のために使用されることは十分推測しうるところである。

(2)原子炉設置許可と住民の反対

 原子力施設を設置する場合なによりも重要なことは、その安全性であり、最も重視される点が立地条件である。ところが、三菱の今回の設置場所は一番近い人家 までわずか65メートルのところにあり、有数な交通の激しい道路に面する敷地内であり、かつ住宅・工場等の密集地帯である。

 また、三菱は住民に対し昭和34年11月14日、大宮市北袋町の大宮研究所には「原子炉の設置はしない」「核燃料の再処理はしない」と確約していた。

 ところが昭和43年7月10日にいたって、三菱の原子炉設置申請は、内閣総理大臣により許可された。

 この許可に伴い、三菱は7月18日に原子炉収容建物の建築許可申請を埼玉県知事に提出し許可されるにいたった。

 地元住民約2000名は内閣総理大臣の許可に対して異議の申立をするとともに、埼玉県建築審査会に対して、原子炉収容施設の建築確認処分に対する審査請求を申立てたが、前者については棄却、後者については却下の処分がなされた。

(3)住民の訴訟提起

 そこで地元住民は、埼玉県建築審議会の審査請求に対する却下決定に対し、建築基準法94条3項に違反するので公開による口頭審査を求める行政訴訟を昭和43年11月17日浦和地方裁判所に提出した。

 昭和44年11月17日、浦和地裁は、口頭審査手続きを経ることなく却下した裁決は違法であると地元住民勝訴の判決をした(判時579号24頁以下参照)。

 建築審査会はこれを不服として東京高裁に控訴の申立をしたが、昭和47年9月棄却され行政訴訟の勝訴は、破棄した。

 他方、昭和44年7月7日地元住民約1600名は、原子力基本法の民主・自主・公開の三原則を徹底的に破壊してきた三菱に対し、原子力公害の予防手段として、「大宮市に原子炉を設置しない」と約束した不作為義務の履行を求め、原子炉の撤去訴訟を浦和地方裁判所に提起した。

 ところが訴訟中三菱は「原子炉撤去」を発表したため、和解に入り、昭和49年7月17日、原子炉撤去、立入を認める和解が成立し、住民の全面的勝訴により終結した。

*高度経済成長下の原子力訴訟

(1)本件訴訟の性格

 原子力委員会は昭和47年6月1日原子力開発利用長期計画を発表し、昭和55年には3200万キロワット、昭和60年には6000万キロワット、昭和65年には1 億KWの発電計画を具体化し、その後再三計画は手直しされたが、運転中15基試運転中の3基を加えれば出力1000万キロワットを超えている。ところが周 辺住民に対する生活環境を保全し、住民の生活と健康を保護する具体的施策を欠如しているために、各地で原発訴訟が提起されている。

 日本原子力発電(株)は昭和41年に我が国最初の原子力発電所として建設した東海1号炉(コルダーホール改良型16万6000キロワット)に次いで、昭和46年12月21日に世界最大級の東海2号炉(沸騰水型軽水炉=BWR110万キロワット)の建設を計画し内閣総理大臣に対し設置許可申請を行った。

 東海第二原発訴訟は伊方原発訴訟に続く第2の原発訴訟であるが、沸騰水型軽水炉では発の訴訟である。東海福島第二原発訴訟は続いて提訴されたが同型のものである。
 
福島県太平洋沿岸一帯の3つの巨大な原子力発電所基地群(計14基)と1つの火力発電所基地(2~4基)の建設は、完成すると日本はおろか、世界にも例を見ない発電所の集中過密立地となる。訴訟は内閣総理大臣の原子炉設置許可処分の適法性を争う行政訴訟であるが、その実体は原子力公害の予防を目的とする差止訴訟である。

(2)国の本案前の申立

 福島原発訴訟では国は昭和50年10月15日第1回準備書面により頭初から本案前の申立をした。この段階から国は各地原発訴訟で住民の当事者適格を争う態度となった。

 国は住民の原子炉施設の危険性についての主張に対し、「原告ら住民が本訴請求についての法律上の利益を基礎づける事実として指摘したところは、『事故が発生すれば』とか、『放射性物質が漏洩した場合』という単なる仮定の事実を前提に置いた危険一般に尽きるものであり、換言すれば、具体的事実に基づかない、したがって、客観性のない、危ぐ、懸念のたぐいにすぎないものというべきである」と暴論をし窓口論争を挑んだ。

 これは周辺住民が訴訟により原子炉施設の安全性を争うことを何としても阻止しようとしたものであった。その論争に6年という歳月を費やした。

 しかしながら、原子力船「むつ」の放射能漏れ事故をはじめ、スリーマイル島原発の炉心溶融に至る大事故、さらには原子力発電所関係者のみでなく、地域はもとより周辺諸国にまで深刻かつ広汎な損害を与えているチェルノブイリ原発事故を見れば、国の主張がいかに独りよがりの傲慢なものであり、安全性無視のものであるかは明らかである。福島原発においても、運転開始以来幾多の事故が発生しており、それが大事故に発展しないという保証はまったくないのである。裁判 所は何れも住民に訴えの利益を認めざるを得なかった。

(3)訴訟審理と裁断回避

 いうまでもなく訴訟の最大の目的は原子力施設の安全性を問うものであった。そのため審査対象、審査基準、被曝評価、原子炉機器の欠陥、廃棄物、原発集合立地等をめぐり危険性の立証を行うとともに、一審では折りから発生したスリーマイル島原発事故を教訓として原発の安全性を問い、さらに控訴審ではチェルノブイリ原発事故に伴う被害の実態を明らか にした。

 しかしながら、裁判所は原発技術の未成熟性に眼を向けることなく、原子炉機器の炉工学的安全性について科学技術的審理を避けた。しばし ば発生する核燃料棒事故(PCI)、圧力バウンダリーの応力腐食割れ(SCC)、圧力容器の脆性破壊、緊急冷却装置(FCCS)の不動作、格納容器の構造等についてはスリーマイル島、チェルノブイリその他の多数の事故からその危険性は明らかになっている。しかも、福島原発は大型化しているがその安全性の実証はなく、かつ集中化しており、事故が発生したときは大事故に連なる危険性があって、従業員、周辺住民への被害が予測されるにもかかわらず、これらについても審理判断を回避した。

 福島原発訴訟は、最高裁において原子炉設置許可処分の適法性は確定されたが、その安全性については司法判断が回避されて行政の責任とされ今後の対策に委ねられた。

(4)原発訴訟と国側の対処

 原発訴訟を提起して以来、国側は現在の原子炉施設について安全であると強弁していたにもかかわらず、住民の主張、立証その他の問題提起に対し、さらには判決を契機として国側および原子力産業の対応にも変化があらわれた。しかし、「安全神話」は、政官財に蔓延し、その体質に変化は見られず、抜本的対策は論ぜられることなく「東日本大震災」を招来した、「人類が核と共存しうるか」科学技術と法の衝突について、司法はこれを避けてとおるのが、解決に向けて正面から対応するのか、原発訴訟はなお現代の課題を提起している。

新たな司法制度を支えるために(弁護士 宮澤 洋夫)

弁護士 宮澤 洋夫

 旧暦一日から事件の被害者・遺族が刑事裁判で直接被告人に質問したり、検察官の求刑に意見を述べたりできる被害者参加制度が発足した。

 今年五月二一日からは国民が司法に参加する裁判員制度が発足する。この制度に被害者・遺族が加わるケースも多くなることが予測される。

 官僚裁判官による〝誤判〟をなくすため、国民が裁判に参加する〝陪審〟の復活が要請されたが、我が国の実状に合うものとして〝参審〟の裁判員制度が採用されたものである。

 被害者・遺族の訴えが反映され、米国の陪審映画「十二人の怒れる男」のような審理が行われ、司法の民主化と公正な裁判に資せられることを期待している。

 司法を支える裁判官、検察官、弁護士は法曹三者と称されている。これらは司法修習を経て選択されているが、日弁連は従来、弁護士として社会経験を経てから裁判官、検察官となる法曹一元の制度を提唱して来た。

 ところが、法曹の飛躍的増員の要請に応える方策として、毎年三〇〇〇人の要請を目途に〝法科大学院〟を設立し、これを修了して司法試験に合格後、短縮された司法修習を経て、それぞれに進むこととした。法科大学院を基点としたため、法曹一元制度は採用されなかった。

 ところが今年度法科大学院修了者の司法試験の受験者六二六一人、合格者二〇六五人、合格率三三%、受験制限(修了後五年以内に三回)により、一七二人が受験資格を喪失している。司法改革の第一歩は失敗した状況である。

 新たな社会の要請に応える司法の健全方策の早急な検討が要請されている。

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