第1 事務所設立…黎明期
第2 地域に打って出る
第3 弁護士会や法律家諸団体における活動
第4 受け継がれるDNA・現在から未来へ
第1 事務所設立…黎明期
1 宮澤洋夫埼玉の地へ
宮澤洋夫は、18期、1966年弁護士登録で、東京の四谷法律事務所に入所した。
青年法律家協会の中心的な活動家でもあり、弁護士になって最初の訴訟が、生活保護に関する憲法(25条)訴訟として著名な朝日訴訟だった。
その後、4大公害裁判(新潟水俣病、富山神通川イタイイタイ病、三重県四日市大気汚染、熊本水俣病)のすべてに関わっていた。
他方、宮澤の修習地は浦和。弁護実務修習の指導担当は、後に県知事になる畑和弁護士であった。
また、上尾で、労働組合幹部の射殺事件があり、埼玉に足を運んで、これを組合の立場から追及していたのも宮澤であった。
自宅も埼玉にあった。
埼玉に民主的法律事務所を、という地域の要望に、宮澤はうってつけであった。
2 おんぼろ事務所
1973年5月に、弁護士3名で宮澤法律事務所を設立した。
場所は、浦和市岸町7-12-1自動車会館2階。現在の埼玉総合法律事務所と同じ場所である。
古い2階建ての木造建物は、床さえ傾いていて、床においたボールが転がっていくほど傾斜をしていた。
ここでの執務は、1977年3月後藤ビル5階への移転まで続くことになる。
3 地域の声に応えて
地域からの期待には、質、量共に宮澤たちの想像をはるかに超えるものがあった。
労働関係に加え、市民からの様々な問題が事務所に持ち込まれた。
設立当初から、宮澤らは、この埼玉の地域に、社会問題に果敢に取り組む弁護士の数を増やしていき、強固な法律事務所、弁護士集団を築き上げたい、との夢を抱いていたが、市民からの要望は、その思いを遙かに凌駕し、毎日数多くの相談事が持ち込まれ、事務所体制の充実は焦眉の急の課題であった。
宮澤法律事務所設立の翌年には、修習を修了したばかりの須賀貴が入所し、さらに翌年には東京合同法律事務所に在籍していた川口市在住の城口順二が事務所戦力充実の即戦力として入所した。
同時に、修習生活動でも活躍していた村井勝美、佐々木新一が入所した。
翌年には柳重雄、さらに翌年には吉田聰と、毎年人数を増やしていった。
吉田入所と同じころ、為成養之助を迎え入れた。
為成は、戦前に現職判事でありながら治安維持法で検挙され、戦後、復権を果たした後は、与野市で弁護士として執務していた。
「清貧に生きて」は、のちに為成が喜寿を迎えた際に、後輩弁護士達が製作した記念書籍の名称であるが、文字通りの弁護士活動を営み、市民からの尊敬を集めていた。
為成の加入は、逆説的な表現のように聞こえるかもしれないが、事務所にとってはとても新鮮な出来事であった。
当時の埼玉においては、ひとつの事務所が毎年メンバーを増やすことは、たいへん珍しいことであった。
1975年には、名称を「埼玉総合法律事務所」に変更した。
今でこそ地域の名前を名称の一部に加えることは全く珍しいことではないが、当時の埼玉ではたいへん珍しいことだった。
「地域のために生きる事務所」というコンセプトを、事務所名称においても宣言をしたのである。
また「総合」法律事務所を目指した。
全国の合同事務所と呼ばれる法律事務所群の中でも、「総合」を名称の中に加えるのは珍しかったのではないか、と記憶している。
埼玉という地域に根ざし、地域のどんな要望にも応えたい、という強い意欲に基づいたネーミングであった。
活動地域は、埼玉県全域に及んだ。県内各地の要望に応え、鍛えられながら弁護士としての活動を続ける中で、浦和という県南の地に拠点を置いて活動するだけでは、限界がある事に気づいた。
また、法律事務所が地域に存在することによって地域の活性化が図られることを地域の各方面から語られるようになり、1981年9月には、裁判所の支部がある越谷の地に、埼玉東部法律事務所を設立すべく、佐々木、柳が独立した。
県東部からの強い要望もいただいて実現したものである。
4 宮澤法律事務所設立直後から事務所所属の各弁護士は多忙を極めた
事件や、全国規模の会議、弁護団合宿、原稿書き…。
弁護団合宿の「連チャン」が当時の事務所ニュースの記事を賑わせている。
多忙な弁護士がたまに事務所に姿を見せると、われさきにと、用件の打合せをする元気な事務局の姿が見られた。
多くの闘いに関与する中で、市民の要求に寄り添い、事務所の黎明期の1ページを飾った事件のいくつかをご紹介したい。
(1)原子力訴訟を巡る闘い
宮澤が埼玉に移る以前の1969年頃、宮澤が担当していたのが、三菱原子炉撤去訴訟である。大宮市北袋、与野駅の東側に三菱マテリアルがあるが、その敷地の中に、原子力船むつに用いるのと同型の小型原子炉が設置され、実験を繰り返す、ということが行われていた。
これに住民が気づき、反対運動を展開した。
当初、大宮の法律事務所に相談が持ち込まれていたが、4大公害裁判などに奔走していた宮澤に協力要請がきて加わった。
この事件では、いくつか申し立てた訴訟の1つに勝利し、それをテコにして、原子炉の撤去という大きな成果を勝ち取ることができた。
これが日本の原子力施設の当否を問う裁判の草分けとなった事件である。
さらに、これを契機に、東海第2原発、福島第2原発の差し止め訴訟に、宮澤は求められて参加をすることとなる。
東海第2には村井を、福島第2には同じく佐々木を参加させることになるわけだが、宮澤は、それぞれの訴訟の固有の難しさに対応した弁護士の配置を工夫したようである。
(2)埼教組弾圧事件
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- 埼教組弾圧事件は、1974年4月11日ストに参加した教育公務員の労組に加えられた刑事弾圧事件である。
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- 事務所は、宮澤、市川、城口を先頭に一丸となってこの事件に取り組んだ。
埼玉県教職員組合(埼教組)は、1974年当時1万1000名の組合員を組織した県下有数の労働組合であった。
当時は、田中内閣の失政から猛烈なインフレが進行中であり、狂乱物価のため、国民の生活は困難を極めていた。
そこで74春闘を勝利的に導くべく、全1日のストライキが企画され、埼教組も3200名を超える組合員がこれに参加した。
これに対して、全国12都道県教組に刑事弾圧が加えられ、中でも埼教組への弾圧は際だって激しいものであった。
県下122箇所に無法な捜索が強行された。
呼出、聞き込み1000件以上、第二次捜索41箇所、昼夜を問わず、組合員の自宅、職場への攻撃が執拗に加えられた。
6月1日委員長をはじめ5名が逮捕されたが、事件当初から弁護団は機敏な行動を続け、同月4日勾留請求却下で、委員長ら組合員の身柄を解放させた。
しかし7月13日、検察庁は、地方公務員法違反で日教組を狙い撃ちにした起訴を強行した。
公判を軸にした法廷闘争は、公務員の労働基本権をめぐる一大憲法裁判に発展した。
16年間の裁判闘争が闘われ、1990年4月16日の最高裁判決で、委員長のみ「あおり」行為で罰金10万円とする1、2審判決が確定した。
最高裁では、2名の裁判官が反対・補足意見を述べ、「“労働側冬の時代”に陽光」「最高裁に震度5の激震」などと、司法反動の後の光明と評価される結果となった。
また、1審100回、2審17回に及んだ公判において、法廷は常に傍聴人であふれ、県民共闘会議が結成されたり、地域に「守る会」などが組織され、旺盛な学習会活動も行われた。大規模な弾圧により力を強めつつあった組織の弱体化や市民との間の分断が企図されたが、結果として組合組織は、法廷闘争を通じて、飛躍的な拡大強化を実現し、市民の間の連帯を強める成果を得るに至った。
(3)スモン裁判
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- スモンは、1965年から1970年をピークに全国的に多発したキノホルム剤服用による薬害で、極度の下肢のしびれ、冷えなどの知覚異常と歩行障害、視力障害を主とする重篤な神経障害を伴うものである。
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- 被害者は全国で2~3万人と言われ、4500人の被害者が全国30を超える地域で訴訟を提起していた。
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- 埼玉総合法律事務所では、主に城口、後に当事務所に加わる管野が活躍していた。
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- 1973年以来、全国各地で各層組織の大きな支援を受け、強力な訴訟活動と運動を繰り広げ、1978年から各地の裁判所で、国、企業の責任を明確に断じた勝利判決が得られ、1979年9月、薬事二法の成立を勝ち取ると共に、全面解決確認書の取り交わしで終結をみた。
埼玉でも、後に述べる映画の上映会など、市民にこの問題に対する大きな支援を訴えかける取り組みを成功させ、解決に大きな貢献をしたが、これらは事務所あげての取り組みであった。
(4)ネズミ講「天下一家の会」事件(消費者事件の草分け)
1977年4月に弁護士登録したばかりの吉田に舞い込んだのが、天下一家の会が主催したネズミ講の事件であった。
ネズミ講は新入会員が払った入会金等のお金が、主催者及び紹介先輩会員の懐に入る構造であり、新入会員が入らない限り自分の出資は回収されないことから、必ず限界と行き詰まりを生じる欺瞞的システムである。
全国で被害が拡大し、一時期は100万人の会員を抱えたと言われている。
全国で被害者弁護団が結成され、弁護団は、天下一家の会に対する破産申立を行った。
これが認められた後、全国の被害者を債権者として、債権届け出の手続を呼びかけ、吉田は、埼玉・群馬・新潟各ブロックの、多数の被害者の責任担当者として事件に取り組んだ。事務所内では専任の担当事務局員も配置した。
この時期には、まだ、「消費者事件」という言葉すら定着をしていなかった。
全国にまたがる消費者事件の草分け、その対処方法の確立をした事件として特筆されるべき事件である。
現在では、この事件のような大規模な消費者事件が発生すると、各地の弁護士会が事件の情報を収集し、機敏に弁護団を確立して集団的討議に基づく方針選択をしながら集団で分担しながらおおせいな活動に取り組む。
しかし、そのようなスタイルが埼玉で始まるのは、1985年の豊田商事事件まで待たなければならなかった。
(5)押し寄せる労働事件
また、1970年代後半から1980年代にかけて、数多くの労働争議、破産による解雇、組合つぶしに対する闘いが頻発した。
仮処分のみならず地労委は四六時中であって、当事務所の弁護士たちは、ほぼすべてのメンバーがどこかの事件に関わった。
それどころか、多くの弁護士が、同時に3件4件のこれら大型争議事件に携わっていた。
このほぼすべての事件が「勝利報告集会」で幕を閉じたが、一般の民事刑事事件を担当するかたわら、深夜にわたる当事者を交えての会議や書面作りなどは、心身共に非常に厳しいものがあった。
しかし、これらの事件は、しいたげられた労働者や労働組合の怒りと共に闘うことを実感することができた。
また、攻撃を受けた労働者や労働組合のまわりに、地域の市民の共感と協力を得て支援の会が立ち上がることが多く、弁護士にとっては、地域の人々との結びつきがさらに加速度をつけて深まるなど、弁護士としてのやりがいにも結びついていた。
その頃に奮闘した弁護士たちの中には、これらの事件における交流を通じて、一生のお付き合いをする友人ができた、と述懐する者も多い。
以上のように、事務所の黎明期とも言える設立からの約10年間(1970年代)は、あふれる地域の要請に必死になって応え、全国に先駆ける運動にも取り組むなど、常に、所員が新しいことにチャレンジをしてきた時期であった。
地域に鍛えられ、そのことによって県内の各方面からの信頼を急速に築いていった時期だったと言える。
第2 地域に打って出る
1 市民向け企画の取り組み
様々な地域の要請に応えるため、日々、仕事に追われるかたわら、そこにとどまらず、逆に地域に法律事務所が様々な形で問題提起していくことを追求してきたと言える。
日々の仕事の中で得られた関係は、実に多方面にわたっていた。他の士業はいうまでもなく、労働組合、市民団体、政党等々、さまざまな分野で多数のメンバーを組織する団体とのおつきあいは、年を追うごとに濃密なものとなっていった。
それはまた、埼玉総合法律事務所の財産と呼ぶにふさわしいものであった。
1970年代後半から始まった「少年法改悪反対」「刑法改正問題」、「拘禁二法制定反対」「国家秘密法反対」の取り組みなどは、日弁連の方針のもと、全国の弁護士会が、それぞれの都道府県において問題提起をし、市民の賛同を集める行動をおこなったものであるが、埼玉においても、様々な企画が弁護士会から発信され、多くの場合、「市民集会」が企画された。マスコミ等を通じた宣伝を行いつつ、多くの市民に集まってもらうために、事務所が培った多くの市民団体等との関係を活かし、働きかけを行うのは、埼玉総合法律事務所の役割であった。
これらの弁護士会の企画を運営するのは、事務所の弁護士だけでなく、多くの埼玉弁護士会員の共同作業であったが、事務所の弁護士たちは、企画の中心部分あるいは広報部門には必ず主体的な役割を担い、事務所内でも繰り返し内容を報告し合い、討議した。
基本的人権にかかわるこれらの問題で、その問題点を市民の中に訴えかけていく仕事は決して簡単なものではなかったが、弁護士の側から地域の各方面に働きかけて協力を求めることは、実は事務所と、地域の諸団体や市民との関係を双方向のものにする積極的な意義があったと考えている。
その後、1990年代から埼玉弁護士会では「人権を考える市民の集い」を毎年1回開催し、その中でも埼玉総合法律事務所の弁護士たちは様々な形で関与してきたが、その初期においては、事務所が培ってきた関係をフルに活かして成功に導いてきた。
事務所の弁護士が、広く社会に向けた企画や問題提起に取り組むのは、弁護士会の企画においてだけではない。
それぞれの弁護士の問題意識に沿って数多くの市民向けの企画が取り組まれた。
スモン映画の上映運動、青法協埼玉支部が母体となって行われた「今日私はりんごの木を植える」の上演、憲法ミュージカルなどは、企画母体の集団を作るところから所員がその中心の一翼をになって進めてきた。
ここでは、スモン映画の上映運動、「今日私はりんごの木を植える」の上演、埼玉憲法フェスティバル・ミュージカルI LOVE 憲法について、ご紹介する。
(1)スモン映画の上映運動
この上映運動が、埼玉総合法律事務所が実行委員会事務局として、全力を挙げて取り組んだ最初の運動であった。
スモン裁判が黎明期の当事務所を彩る裁判のひとつだったことは、既に述べたとおりである。
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- 1980年11月21日、埼玉会館大ホールで、「人間の権利─スモンの場合─」の上映会が、600名を超える参加者を得て開催された。
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- 広く市民団体の参加で上映実行委員会が結成されて、上映運動を展開した。
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- 当事務所は実行委員会事務局として、全力を挙げて上映運動に取り組んだ。
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- 県内の様々な取り組みに参加したり意見を述べることは数多く経験してきたが、事務局を担い、県内の弁護士だけでなく広範な市民と連携し、運営の責任者として活動することは、事務所として初めての経験であり、運動の中で数多くの教訓を得ることができた。
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- この映画は、薬害の恐ろしさ、製薬資本の非情さ、国の無責任さに強い怒りを感じた事件を取り上げたものであるが、地獄のような生活から、「人間としての権利」を回復すべく闘いに立ち上がった患者・原告の姿にふれ、交流を深める中で、闘いが人間を変え、真実を見る目を開かせるのだということを目のあたりにすることができた。
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- 言うまでもなく、これは運営の側に立つ当事務所のメンバーの成長の礎となった。
(2)「今日私はりんごの木を植える」の上演
青年法律家協会埼玉支部が母体となって行われた演劇企画である。
憲法を護る視点から、社会の中にうごめく諸矛盾を芝居に仕立てて分かりやすく告発する企画であった。全国で展開されたが、埼玉はその先駈けのひとつであった。
県内の会員弁護士多数の参加のもとに進められた。
まだほとんど新人だった大久保を中心に埼玉総合法律事務所の弁護士、事務局員が積極的にこの上演運動に参加し、その運動の中心を担い、ひろく地域に運動を広げていった。
上演の準備は、シナリオの確定や稽古に、宣伝や当日の運営など、ありとあらゆる事柄に及ぶ。
数え切れないほどの裏方仕事をこなしたが、事務所の弁護士たちは、そのような方面の仕事に持てる力を発揮する傾向がある。
1984年11月22日に行われたこの劇は、改憲の狙いをつき、日本国憲法の価値を謳いあげ、現代の人々のくらしの中に生きている憲法の姿をしっかりと捉える趣意に賛同した1100名に及ぶ市民の参加によって無事成功した。
(3)埼玉憲法フェスティバル・ミュージカル
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- [ I LOVE 憲法 ]
このミュージカルは、1993年から毎年5月に県内各地で演じられ、2002年までの10年続けられた。
芝居を作るのはプロ。
演じるのは公募の市民。
事務所の牧野が企画の立案から準備まで、事務局の一員として、重要な役割を担った。
事務所OBであった須賀が実行委員長となり、髙木や伊藤、岡田司法書士が出演者として参加した。
恒常的な運営体を作り、専従事務局員を雇い、事務局は埼玉総合法律事務所内に置かれた。
毎年異なる脚本が準備された。
テーマは、その時々に社会を賑わせた事象をとりあげた。
この企画は、単純に護憲を謳うものではない。
社会に実際に起きた事件にはいろいろな見方ができる。
それを憲法の視点で斬るとこうなる、という作り方であった。
護憲と最初から決めている人とだけではなく「憲法を考える」ためにはどうしたらよいのか、と考えあぐねた末の企画だった。
なので、I LOVE 憲法のタイトルとは裏腹に、芝居の中で憲法礼賛の言葉はほとんど出てこない。
生の事実を追体験する事を基礎に、プロが音と光とダンスで彩った。
弁護士の感性だけではなくプロの芸術家の感性とコラボして生み出した作品群だった。
出演者の公募には、毎年多くの市民が詰めかけた。
憲法に触れた事がない、という人も決して少数ではなかった。
しかし、プロによる真剣な指導を受け、最後は、作品に描かれた世界をどれだけ忠実にかつ美しく表現できるかに集中した。
プロの芝居ではあまりお目にかかれない不思議な世界を体験することができた。弁護士たちの想像を遙かに凌駕する世界であった。
10年間の間に約50回の公演を行い、合計5万人を超える観客にみていただいた。
2002年にいったん幕を閉じたが、その後この企画は、山梨、三多摩、大阪、神戸と広がっていった。
2 多様化する活動
日常的な弁護士としての活動だけでなく、市民の中に入り、広範な人々と連携してその社会の中に運動を作った活動は、実に多岐にわたる。
情報公開制度や行政訴訟を駆使し、官官接待の告発や行政の隠された暗部を白日のもとにさらす活動で一世を風靡した埼玉市民オンブズマン(野本ほか)、戦後はじめての本格的な刑事模擬陪審裁判を青法協埼玉支部が演じて以来、市民と共にわが国に陪審裁判を復活させようと取り組んだ埼玉陪審フォーラム、労災など職場の安全をまもるための活動を行う市民団体「働くものの生命と健康を守る埼玉センター」(吉田・伊藤)。
最近では、のちにご紹介するサラ金等の高金利撤廃の運動、反貧困の活動、さらには東日本大震災への対応などなど。
事件活動においても、たとえば須賀や管野が好んで多く取り組んだ日照権事件などにおいては、当該地域の住民を組織し、その法廷外の運動と共に弁護士としての活動を行うというスタイルが常態化していた。
大型消費者事件の草分けとして有名な豊田商事事件(中山、牧野をはじめ事務所のほぼ全員が参加)は、単に弁護士としての仕事を行うだけでなく、高齢者が大半の被害者に働きかけて、「被害者の会」を結成し、市民マスコミに訴えかける活動を行った。
いずれも埼玉総合法律事務所の弁護士だけでなく、県内の多くの弁護士や市民と共に運営したものである。
必ずしも前例のある活動ではなく、蛇行運転を繰り返しながら、悲喜こもごもの活動を営んでいた。
事務所の弁護士たちは、必ずしもその先頭に立つとは限らないが、難しい運営の要としていわゆる汗かき仕事を得意とした。
3 大会議室
話の趣は少し変わるが、埼玉総合法律事務所がこれまでの様々な企画に取り組むにあたり、非常に大きな役割を果たしたのが、事務所の大会議室である。
いや、この会議室があったから、事務所の弁護士たちは、世の中に打って出る様々な活動に深く関わることができたとすら言えるかもしれない。
1982年、埼玉総合法律事務所の弁護士は総数10名を超え、執務室自体が手狭になった。
会議室もあるにはあったが、非常に狭く、増えてきた住民訴訟や労働事件のような大勢の当事者との打合せが非常に困難になっていた。
事務所拡張は長年の願望だったが、この年に、当時の事務所の同じビル内に36坪の部屋を借り、ここを会議室と資料室にした。
会議室にはあえて豪華なワインカラーの楕円形テーブルを入れた。
広さといい備品といい、それまでの窮屈なスペースに比べると突然に変貌したが、事務所の活動スタイルとしては、必然だったと言える。
多くの人々を結集することで新しい知恵が生み出される。団結が図られると共に、人々の主体的な参加を促す。
その必要性が高い取り組みを保障するためには、必須アイテムとして広い会議室は必需品だった。
また、会議室開設当時から、事務所員が関与する仕事だけでなく、広く各方面に開放した。
各種弁護団会議や学習会のほか、国民救援会が恒例の救援美術展を開催したこともあった。1980年代中頃から浦和の池本誠司弁護士(元埼玉弁護士会会長)が奔走して始まった消費生活相談員の方々との勉強会は、現在、弁護士会と相談員との強固な連携に発展したが、この勉強会も、当事務所の弁護士も参加してこの会議室で始まった。
その後、当事務所は所員数の増加に伴う改装や転居を何度か行ったが、大会議室と小会議室は、必ず設置している。
現在は、最大50名程度が使用できる大会議室が3階に設けられ、毎日、午後5時以降は、使用予約で埋まっている。
4 事務所ニュース
事務所ニュースは、今では多くの法律事務所が発行しているが、埼玉総合法律事務所はこれを1977年1月号から発行した。
広告が原則禁止だったその当時には、埼玉弁護士会の会員からは、弁護士倫理に違反するのではないか、と議論になったこともあった。
2015年夏号は第77号である。
このニュースは、言うまでもなく、市民と事務所や弁護士たちの結びつきを深めるために発行している。
これを改めて振り返って読んでみると、その時々の社会情勢や事務所の感性が窺われて楽しい。
現在、1号あたりの発行部数は、5000通に及ぶが、時々この中に、署名用紙を折り込むことがある。
そうすると、申し訳ないことに返信用封筒をお付けしていないにもかかわらず、数千筆に及ぶ返送をいただくことがある。
事務所ニュースが市民の方々とのパイプになっていることを実感すると共に、繋がりの大切さを改めて思い知る。
いつでもどこでも、埼玉総合法律事務所は、社会との繋がりを大切にすること、そのためには受動的に受けとめるだけでなく、自分たちから外へ打って出るという気風を忘れてはいけないのだ、と思う。
5 事務所の定例法律相談
埼玉総合法律事務所では、多くの市民団体や労働団体等とのお付き合いが豊富だが、日常的な仕事は、決してそれらの団体の皆さんからの紹介によるものだけではない。
突然の紹介なしの相談に対応する態勢が古くからできている。
その開始は、1980年であった。当時の弁護士業界では、関係者の紹介なしのいわゆる「飛び込み」の法律相談をあまり好まず、紹介のない相談はお断りを公然と掲げる方が多かった。
現在ではあまり考えられないことである。
当時はインターネットのようなシステムがなく、事務所定例相談として週1回の相談日を設けても、それを広報する手段は限られていた。
したがって、せいぜい週1回午後、という程度であったが、それが徐々に拡張するようになったことからも分かるとおり、需要は決して小さなものではなかった。定例相談開始のそもそもの発想は、地域に打って出る姿勢が出発点であった。
6 城口杯ゴルフコンペ
一風変わったこの企画も事務所の歴史を語るためには欠かすことができない。
もともとは城口が依頼者や後輩弁護士たちを誘って趣味の延長で始めたものであるが、いつしか人が人を呼び、城口に限らず、事務所の他の弁護士たちの知己もお誘いするようになり、年2回の大イベントとなった。城口の名を冠しているが、途中から埼玉総合ゴルフコンペの実質を持っていた。
依頼者の方々にとどまらず、労働組合の関係者や県内の弁護士たちなど実に広範な人々でにぎやかに開催された。
多いときには40名を超える参加者があった。
20回以上開催しただろうか。
参加する弁護士の中には大勢の他事務所の弁護士も含まれており、全く分野が異なる参加者同士の交流の場でもあった。
現在事務所としては、開催していないが、今となっては、人と人の連携を重んじた事務所の気風がこの斬新な企画を生んだものと考えている。
第3 弁護士会や法律家諸団体における活動
埼玉総合法律事務所の弁護士たちの多くは、弁護士会や法律家諸団体の役職に就いている。
特に事務所の弁護士同士で、これらの役職に就くことを暗黙の了解にしたことはないが、いつでも、弁護士会や所属する法律家諸団体の状況を全員共通の認識にしている。
1 法律家諸団体
事務所では、入所のひとつの条件として、青年法律家協会、自由法曹団、日本労働弁護団(総評弁護団)への入会を義務づけている。
事務所の弁護士は、世間で思われているほどいつでも一枚岩の統一行動をとっているわけではない。
むしろ、自由な発想で斬新な活動をすることが尊重される。したがって、いつどこで何をやろうと自由、というのが基本である。
しかし、いつどこで何をしようと、事務所で同じ釜の飯を食う以上、共通の価値観は持ち合わせていたい、という発想に基づき、これら3つの法律家団体への加入は,最低限の一致点として所属を義務づけられている。
なので、それぞれの団体の活動の中心をになう役職についた場合、事務所をあげて応援をする(精神的応援にとどまる場合がないとは言わない)。
また、月1回の事務所会議においては、必ずこれらの団体の現状報告を行い、一定の討議を行うことにしている。
これらの団体の埼玉県内の役職にとどまらず、全国の役職に就任することもある。
1986年に青年法律家協会弁護士学者合同部会の副議長に大久保が就任した。
自由法曹団においては、本部事務局次長に吉田、梶山、岡田、齋田、伊須が就いた。
2年間の任期の間、日常業務に向かう暇が乏しい毎日を送った。
労働弁護団では、本部事務局次長として野本、佐渡島が、2013年から髙木が本部幹事長に就任した。
2 弁護士会
宮澤法律事務所を設立した当時は、強制加入団体であり保守層の弁護士が多い弁護士会の中で、存在感ある仕事を行おうとしても行うことができない、という時期だった。
しかし、自由と正義をまもることが弁護士の使命とされるわが国において、弁護士の役割を拡大し、社会の中でプレゼンスを明らかにすることは、わが国やこの地域の基本的人権の擁護、ひいては社会全体の健全な発展に貢献する、という発想が埼玉総合にあった。
地域からの要望に応え、また、地域に入り込む活動に忙しい日々の合間を縫って弁護士会の活動にも足を運ぶことは、そう容易なことではなかった。
また、設立当初の頃は、埼玉弁護士会としての活動量は、現在とは比べものにならないほどに小さなもので、その狭い活動領域の中に割り込んでいくことは楽ではなかった。
しかし、それでも様々な活動に取り組み、埼玉弁護士会内の多くの会員弁護士の信頼を得ることにより、宮澤が1980年に埼玉弁護士会の副会長に就任したのを皮切りに、事務所の多くの弁護士が、副会長に就任した。
1988年には宮澤が会長に就任し、事務所在籍中に就任した会長は、宮澤、城口(事務所退所後には日弁連副会長にも就任)、村井の3名にのぼる。
その他、現在では活発な活動量を誇る埼玉弁護士会の各種委員会の委員長に就任する例も多く、日弁連においても猪股が人権擁護大会や貧困問題対策本部で事務局長をになうなど、弁護士会や日弁連の中でなんらかの活動の足場を持つ、ということは、事務所の弁護士のある種の義務のようにもなっている。
3 法律扶助
法律扶助制度は、費用を賄えないために弁護士の援助を得られない市民のために弁護士費用を公的資金をもって立て替えようという制度で、「弁護士費用」という弁護士へのアクセス障害を緩和する制度である。
2006年までは、財団法人法律扶助協会がこの制度を運営し、その後は、日本司法支援センター(略称法テラス)が運営している。
埼玉では1990年代初頭まで、この利用件数は年間100件にも満たない極めて小さなものだった。ちなみに現在は4000件を超えている。
村井は、まだまだ弁護士の援助を受ける市民の数が少ない現状は、司法の援助が必要な人が社会の中に埋もれてしまっていることの顕れであると考え、埼玉における法律扶助の拡大に取り組み、扶助業務に精通する多くの埼玉の弁護士たちを巻き込んで、大きな動きにしていった。
先進的な件数をあげている神奈川などの他地域を訪問して運営上の知恵を集めることに始まり、リーガルエイドとして経済的理由により司法へのアクセスが困難な人々に対する公的援助が充実している諸外国(イギリス、カナダ、オーストラリア)の調査も提起し、これには全国の扶助業務関係者をはじめ、最終的には法務省も巻き込んで実施した。
これらの調査では、単に財政的援助を公的機関が行うだけでなく、市井の弁護士が取り組みたがらない事件に取り組む公費で運営される法律事務所があることも知った。
これらの取り組みがひとつの大きな原動力となって、2006年に日本司法支援センターが発足した。
海外調査に参加し、法律扶助協会の実務も担当した梶山は、その初代埼玉地方事務所長に就任し、第1期法テラス法律事務所スタッフ弁護士の養成事務所にも名乗りをあげた。
これに応えて小林誠が事務所に入所し、1年間の養成を受けた後に法テラス熊谷のスタッフ弁護士として巣立って行った。
第4 受け継がれるDNA・現在から未来へ
現在、埼玉総合法律事務所の弁護士は17名。この中で、事務所の基盤を造った最初の10年の時期にいた弁護士は、宮澤と梶山の2名だけになった。
1 金利引下げ運動
埼玉県内において、2002年夏、ヤミ金の取り立てに追われ弁護士の助力を得ることもできず前途を悲観して夫が妻を絞殺するという事件が起きた。
当時、県内で消費者事件のトップランナーの1人であった猪股は、こうした痛ましい事件を2度と繰り返させないため、12月に、当時の埼玉弁護士会の消費者問題対策委員会の中核メンバーに働きかけ、県内約50人の弁護士が参加するヤミ金融被害対策弁護団を結成した。
埼玉総合法律事務所からも8人の弁護士が弁護団に参加し、現在まで、ヤミ金の取り立てを止めるための、電話口での怒号が所内に響く。
さらに、貧困の原因となっている高利貸付を規制するために、全国クレジット・サラ金被害者連絡協議会が中心となって、高金利引き下げ運動が全国展開され、埼玉でも、2000年の被害者交流集会や2006年の高金利引き下げリレーマラソン、地方議会意見書採択運動など、弁護士、司法書士、被害者の会などが連携した活発な運動が行われたが、高金利引き下げリレーマラソンでは、秩父事件において増税や借金苦に喘ぐ農民が決起した地である秩父の椋神社を出発地とし、東京の日比谷公園までの約150キロを4日間に分けて、たすき代わりの陳情書をリレーし、日弁連主催の1000人パレードに合流し、事務所の猪股らも、秩父の山中を駆け抜けた。
このような全国的な市民運動の結果、2006年12月、多重債務や自殺の最大要因であった高金利が引き下げられ、グレーゾーン金利が撤廃されたことは記憶に新しいところである。
2 反貧困の取組み
2006年、日弁連が人権擁護大会において、初めて貧困問題を正面から取り上げ、埼玉弁護士会も、日弁連と連携してプレシンポジウムを開催し、会内に生活困窮者支援の委員会を設置し、生活保護申請同行の日弁連援助事業化に向けた取組などを精力的に開始した。
民間の動きも活発になり、2007年3月には東京で反貧困ネットワーク準備会が設立され(猪股が参加)、同年4月には、生活保護の水際作戦などの違法な運用を是正するため、猪股が共同代表の首都圏生活保護支援法律家ネットワークが設立された。
相談電話に対応する体制の構築に事務所が積極的に協力し、現在に至るまで、首都圏の300人以上の法律家がこれに参加し、生活保護相談が毎日絶え間なく寄せられている。
2008年には、日弁連が「労働と貧困」をテーマに人権擁護大会を開催し、猪股がシンポジウムの事務局長を務めた。
この人権擁護大会の最中にリーマンショックを契機とした世界同時不況を迎え、年末にかけて、各地で大量の派遣切りが強行された。
この事態に、全国の様々な個人・団体が連携して、同年12月24日、夜通しの「明るいクリスマスと正月を!年越し電話相談会」が実施され、事務所の大会議室に10回線の臨時電話を設置し、事務所をあげて対応した。
翌日には、住居を失った方たちと生活保護の申請同行を行った。
年末には、マスコミでも大々的に報道された日比谷の年越し派遣村の取り組みが行われ、派遣村実行委員会のメンバーであった猪股も、派遣村の相談テントの責任者として活動した。
当事務所の多くの弁護士、事務局員もこれに参加した。
その後も、次々に新しい試みを提起し、猪股は、日弁連の貧困問題対策本部の事務局長として頑張り、反貧困の取り組みは、個別事案の救済方法の拡大と共に、政権が進める格差拡大に結びつく諸政策への強力なカウンターに成長しつつある。
3 東日本大震災・東京電力福島原発
2011年3月11日、東日本大震災・原発事故への対応も忘れてはならない。
福島県双葉町の方を中心に、2500名以上の被災者の方々が、さいたま新都心のスーパーアリーナに避難した。
埼玉では、従前から反貧困運動のネットワークが構築され、様々な生活支援の取組が行われてきていたこともあり、猪股の呼びかけに多数の仲間が応じ、震災支援ネットワーク埼玉(SNS)が立ち上がり、埼玉県の理解も得て、スーパーアリーナの中で、弁護士、司法書士、臨床心理士、社会福祉士、労働団体及び学校教育関係者らによる、避難者へのサポートを行った。ちなみに、古城は、スーパーアリーナに、何か自分にもできることがないかと修習生の立場で参加していたことが縁で、その後、埼玉総合法律事務所への入所することになった。
その後も、震災支援ネットワーク埼玉は、避難者の移転先である旧騎西高校内での相談活動、県内避難所における巡回相談活動などを行い、2012年、2013年、2014年と連続して、避難者に対する大規模アンケートを行い、避難者の6~7割もの人がPTSDであり危険な状況にある可能性を指摘し、行政に必要な対応を求めるとともに、原発損害賠償の慰謝料水準があまりにも低すぎることから、埼玉弁護団と連携して、慰謝料水準の大幅な底上げを求める活動を行った。
埼玉弁護士会の災害対策本部では、岡本が県内各地で行われた原発事故損害賠償説明会の講師を担当し、震災対策連絡協議会を企画運営。
県内各地の被災者交流会へ参加するなど、被災者の方々への情報支援に奔走した。
4 広がる活動分野
現代の「格差社会」の象徴とも言える非正規労働者の増加。
非正規労働者は常に無権利状態におかれている。
「使い捨て」の現状を告発し、企業にいとも簡単に切り捨てられてしまった労働者の救済と、法制度の改革が求められている。
以前は、労働事件というと埼玉総合法律事務所ほか自由法曹団や労働弁護団に所属する法律事務所以外はあまり扱わず、むしろ敬遠する傾向があったが、現在では残業代請求や解雇無効など、労働審判制度が2006年4月に導入されたこともあって、多くの弁護士が扱うようになった。
しかし、時代の最先端の課題である非正規労働者の問題は、今日においてもまだまだ弁護士通常業務として扱う弁護士は少ない。
伊須は、東京の弁護士たちと共に先駆的に取り組み、数多くの訴訟を行うと共に、市民団体に非正規問題の取り組みを促すなど、世論形成のための行動も強めている。
本来は経済的に困難な学生を援助するはずの奨学金制度が、結局、ローン会社の金利により、かえって大きな経済的困難を生んでいる実態を告発する奨学金問題に取り組む、鴨田。
まだ新人の部類に入るが、県内の運動体の事務局長や日弁連のこの問題の重要なメンバーとして、日々、奔走している。
古城は、最後のセーフティネットであり、他の社会保障制度を下支えしている生活保護制度の改悪問題、なかでも生活保護基準引下げ反対の運動に取り組み、埼玉の生活保護基準引下げ違憲処分取消訴訟の弁護団事務局長を務め、市民連絡会とも連携し、粘り強く県内の運動を支えている。
アスベストの問題は、古くて新しいテーマである。企業の利益優先の姿勢が、多くの労働者を被災させ、大勢の方々が苦しみの中で亡くなられた。
この事態に市民団体が中心となって、これと闘う運動が形成されている。県内の弁護士も、県内大企業を相手取って訴訟を提起するなどの活動を行っている。
市民の法廷外の活動とも互いに関与し合った大衆的裁判闘争の様相を強めている。
竹内はその中の1つの事件の事務局長として、訴訟活動のみならず弁護団の運営や支援団体との連携に力を注いでいる。
谷川は、最近の弁護士会の市民集会企画では、なぜか司会者、コーディネーター役を仰せつかることが続いており、壇上の論客たちと堂々と渡り合っている。若者の市民団体や女性団体との交流には欠かせない存在となっている。
竹内、月岡は、埼玉弁護士会消費者委員会の旺盛な活動の中で、新たな消費者被害の救済に取り組み、それぞれ個別事件の中で重要な役割を果たしつつある。
5 おわりに
昔からの当業界の言い伝えのようなもののひとつに、弁護士は、最初に3年間所属した事務所のカラーに染まる、というものがある。
最近は、弁護士同士の離合集散が激しくなり、このようなことが語られているかどうかは分からないが、長い間弁護士として活動を続けていると、その言い伝えは、間違っていないように感じる。
埼玉総合法律事務所では、「かくあるべし」「こうしなければならない」という形の議論はあまりしない。
各人の「かくありたい」を尊重するのが伝統である。口角泡飛ばしての議論も繰り返される半面、汗をかいている人に対して決して反対意見は突きつけない。
所員は、このような環境に育てられ、非常に恵まれていると感じている。
そこで培われる感性で、この埼玉の地で時代を切り開く活動を続けていきたい。
何か目の前に現れた事柄を直視し、仲間や事務所を形作った先輩方の財産を信頼して、進んでいきたい。
今回のこの記録は、現時点での総括であり、また、必ずしも事務所の特徴を表す事件や出来事のすべてを拾えたわけではない。
例えば日常的に扱う事件の中に、「特殊事件」と呼ばれる事件が数多いがほとんど紹介できていない。
かつては労働事件や行政相手の事件自体が「特殊事件」とされ、事務所の弁護士の得意分野のひとつだったが、それ以外にも、あまりお目にかかることのできない特殊な事件が多いのが特徴だった。
管野が担当したベビーベッド事件は、製造物責任法施行前に、メーカーの製造物責任を問う訴訟であった。
村井が担当した踏切事故の損害賠償訴訟、髙木が担当した少年の補導委託先における八街事件。
村井、管野が担当した自宅の外を走る送電線感電事故について東電の責任を問う訴訟。他にも実に枚挙に暇がない。
紙幅の都合でこれらの事件を詳しくご紹介することができないが、いずれも「おかしい」とか「気の毒だ」と思っても、なかなか弁護士が受任して結果を出すには大きなハードルがいくつもある事件である。
しかし、自らの感性を磨き、被害者の思いを感じ取り、幾多のハードルを乗り越えて訴訟を営み結果を出すことが、とても重んじられた。
必ずしも世間の注目を浴びることは少ない、いわば「個別事件」と呼べる事件である。このような取り組みの経験は、明らかに弁護士としての力量を強化してくれる。
そういった事件を吸い取り、埼玉総合法律事務所に持ち込んできてくれる人々が数多くいたことも背景にある。
今回は十分にご紹介できなかったが、いずれそれも事務所の伝統を明らかにする事柄として詳しく整理してみる必要がある。
他にも、大窃盗団に盗難された多数枚の手形(数億円)が全国の「善意の第三者」に渡り、所持人からの手形金請求訴訟を全国各地の裁判所で受けたが、全件勝訴し、依頼者の上場企業が結果として1円の被害も受けずに解決した事件(宮澤・梶山・牧野・猪股・齋田)や、当時の北海道最大のスキー量販店の負債総額50億、従業員総数数百人の企業(本社埼玉)の大規模破産申し立て事件を、僅か1週間の間に経営判断しつつ申し立て準備を隠密裡に行い、平穏な倒産処理を進めることができた事件(宮澤、村井、牧野)など、事務所の成り立ちからは若干想像しづらい事件も経験した。
必ずしも当事務所がいつでも取り組んでいるテーマではないが、このような仕事が与えられる環境に誇りをもっているし、今後も、私たちが必要とされる場面で、所期の成果を成し遂げるために知力を結集できる姿勢を維持したい。
2023年の創設50周年の時期に、この事務所は、はたしてどうなっているのか。
おそらく、所員の構成も変わり、さらに規模も大きくなっていることだろう。その時にどのような振り返りができるか。
地域の皆さんや同業先輩諸兄姉のお力添えが不可欠だと考えているが、そのためには、現在の私たちが、この先も人々の特別な信頼を勝ち得る日々を送る以外にないものと思い、決意を新たにしている。