【コラム】追悼 宮澤先生との思い出を振り返る(弁護士牧野丘)

ご幼少時代のことも含めた宮澤先生の足跡を1冊の書籍「心礎を築く・・・私たちの宮澤洋夫先生」にまとめることができたのは、本当によかったと安堵している。事務所挙げての取り組みで、既に90歳の年齢を超えていた先生の期待の圧を感じながら、全所員が自ら原稿を執筆し、聴き取り調査や資料収集、宮澤先生ゆかりの皆さんへの協力のお願い等に、多くの知恵と時間を使った。完成した頃は先生はまだまだお元気だったので、完成本をお渡しして喜んでいただいた。

 改めてこの本を読み返してみると、先生の類い希な幅の広さと頑固一徹でとことんエネルギーを注ぎ込むお姿が同居していたことに今さらながら気づかされ、感嘆する。宮澤先生は晩年こそいかにも好々爺然とされ、あまりおしゃべりにならず、思いにふけってタバコをくゆらす姿が印象的だったが(今の所員の大半はそういうお姿しか目にしていないと思う)、実は局面局面で激しい言葉で後輩弁護士や、地域の市民活動家の皆さんを語気鋭く叱責したりしていた。そういう宮澤先生に、多くの諸兄姉は「畏れ」を抱いていたが、他方で左から右までの交際範囲の幅の広さ(「市ヶ谷駐屯地に顔パスで入れる唯一の左翼」というのは駄話の類いだと思うが、それくらいに陸士の同窓会の世話役として献身的に活躍されていた。ちなみに先生と陸軍士官学校で同期だった私の父の葬儀の際には、同期生の元統合幕僚長会議議長の方に声をかけていただき、父への弔辞を読んでいただいた)や、 ものすごく緻密な配慮に基づいた分け隔てのない献身性から、大きな信頼が揺らぐことはなかった。むしろ先生から叱責されないのは一人前と思われていないことと思われていた。しかし、梶山敏雄弁護士だけは1度も厳しく叱責されていない。そのことを私は先生に尋ねたことがあった。酒席か何かの気楽な席だったと思う。先生は即座に答えられた。「あの人はなぁ、幼い頃から泥水すするようにしてここまで立派に生きてきたんだ。俺みたいに甘くのんべんだらりと好き勝手やってきた人間と物が違うんだ。そんな人にどうして俺が言えるか!」うまく総括して表現することが難しいが、強い衝撃を感じると共に、宮澤先生ご自身の「心礎」を見た思いだった。

弁護士 牧野 丘

(事務所ニュース・2022年夏号掲載)