【コラム】追悼 宮澤先生との思い出を振り返る(弁護士梶山敏雄)

2022年2月22日の2の並ぶ日に宮沢洋夫弁護士が、東日本大震災と同じ日の3月11日に元事務所所属の城口順二弁護士がと、我が事務所の礎を築いた両先生が相次いでお亡くなりになりました。亡くなる日のことまで私達にしっかりと記憶させる先生達です。

全国各地に民主的事務所の設置をということで、宮沢弁護士が昭和48年に東京の事務所から埼玉に移って宮沢法律事務所を設立し、昭和50年に埼玉総合法律事務所と名称を変更。宮沢弁護士は埼玉で業務を始めてからも、四大公害訴訟、大宮三菱原子炉撤去訴訟、福島・水戸原発訴訟、新幹線認可取消訴訟などなど語り尽くせぬ難事件に取り組み、城口弁護士も狭山事件や埼教組弾圧事件、全国スモン訴訟を担当し、2人とも全国どころか海外調査にもしばしば出かけ、私が入所した昭和53年頃はなかなか顔を会わせることも少ないという事務所の状況でした。
宮沢弁護士は陸軍士官学校60期、狭山市の士官学校に来襲する米軍の飛行機2機とついでに日本の飛行機も高射機関銃で間違って撃ち落とし(本当の話のようです)、終戦後には裁判所の書記官に採用されたが労働組合運動でレッドパージされて処分撤回訴訟を闘い復職、その後は最高裁書記官、そして弁護士へという波瀾万丈の人生です。でも現在の若手弁護士が入所する頃には好々爺然とした柔和な雰囲気を、誰が言っても終生辞めることをしなかったタバコの煙と共に漂わせた宮沢先生です。私も間もなく事務所在籍45年となり、お二人の足元には及ぶべくものではありませんが、最後にお二人とおいしいお酒を酌み交わしたかったものです。

弁護士 梶山 敏雄 

(事務所ニュース・2022年夏号掲載)